20年後の責任を負える我々世代から復興の一歩目を

仮設庁舎の応接室にて。
仮設庁舎の応接室にて。

「女川は流されたのではない/新しい女川に生まれ変 わるんだ/人々は負けずに待ち続ける/新しい女川 に住む喜びを感じるために」

東日本大震災の二ヶ月後、小学六年生だった男子 児童が詠んだ詩だ。当時大人達は混乱と不安の渦中 にいたが、既に未来を見つめる子ども達に「はっとさ せられたんです」と須田善明町長(42歳)は語る。

高校まで女川に暮らし、大学で東京へ。仙台で2年 間働いた後、宮城県議を3期務めた。震災後、県政時 代から信頼する安住・前町長の後を継ぎ、2011年11月 より現職。県政で関わった石巻・牡鹿半島住民への 恩を感じながらも女川町長の道を選んだ。

「骨を埋める女川の未来に、政治家としてどこまで 全力を尽くせるか? 20年後に後悔したくない。先 達が復興させた町を60代で引き継ぐのではなく、そ の一歩目から我々世代が結果責任も含め背負うべき ではと考えました」と当時を振り返る。

女川町は、明治22年の女川村発足以来、120年間そ の枠組みが変わらない。地勢も影響し帰属意識の強 い、水産業が根付く活力のある町だった。二代前の 町長が父親。密集した中心と個性的な浜が幾つもあ る女川で、いつか責任のある立場にと若い頃から考 えていた。「女川を背負ってきた先輩は昔から公共的 な部分に対して常に時間と労力を注いでいた」。その 姿を知る自分たち30~40代は、今も上の世代に「頼 まれると断れない」と苦笑しながら、復興にも奔走する。町長にとって心の原風景だ。

復興を目指すまちづくりでは、「まち」という空間/ 場に、町民が自由に創造的に使える、居心地の良さと 「幅」を期待する。「今の取り組みが10年後も正解かど うかは誰にもわからない。大ハズレかもしれない。町 は生き物で、復興計画に“完成形”はなく、時代の中心 となる世代が前向きにチャレンジ、更新できる幅が 必要」と説く。同時に子ども達にも焦点をあて「有形 無形の語り継ぐべきものはあるが、古い町への郷愁は あの日以降生まれた子ども達には無関係。新しい町 が彼らの原風景になる。建物よりも“私は女川出身だ” と胸を張れる心の原風景をどう残せるかが大事では ないか」と、今も町に根付く世代を超えた信頼関係の 継承を願う。

現在も仮設暮らしながら、国内外への出張も多く 多忙な日々。政治家として数千人の町民に対し大き な責任を背負うが、一人ではない。常に「我々」と呼 べる世代や業種を超えたたくさんの仲間=町民が、 女川の未来を模索し、悩み、様々な決断も躊躇なく 更新しながら走り続ける。町は、ずっと生きている。

聞き手=相澤久美


須田善明町長ブログ

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